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2013年2月

2013年2月25日 (月)

結婚式をやってみた①~開催までのいきさつ~

平成25年2月24日、ついに我々の結婚式と披露宴が決行された。

とても疲れた。それであれを疲労宴という・・・。

さて、お約束のギャグも言ったところで、これからしばらくの間、そのいきさつや舞台裏を記録していこうと思う。

我々は昨年の4月に入籍した。

その時はそれが精いっぱいであった。でも披露宴はいつかやりたいと思っていた。

私の仕事の関係から言ってひまになる11月はどうだろうと思ったが、準備期間中は忙しいし、何より計画する暇がなかった。

夏の間は私も妻も疲れて帰宅し、ビールを二人で一缶あけては速攻で酔っぱらうという生活リズムで、話し合いの余地がない。

農家の仕事が終わり、2月か3月にやろうと私は言った。

妻は乗り気ではなかった。

私が披露宴のことを口にするたびに、妻は「なぜ披露宴をしなくてはいけないのか」という議題を何度も哲学者のように考えるのであった。

実際、私も準備のことを考えるとかなり面倒くさかったが、後になってやりたくなっても仕方ないし、きっとみんなも喜ぶはずだ。

とにかく日にちを決めなくてはいけない。

披露宴を楽しみにしていた一人、妻の鍼の師匠は「まずゴール(日にち)を決めろ!」というアドバイスをくれた。

それで、まずゴールを決めた。

すると、その鍼の師匠は都合が合わず来れなくなりました。

それじゃダメじゃん!

でも、失敗も多かったけど、それなりの披露宴に仕上げていったのです。

つづく

2013年2月 9日 (土)

室欄・白滝記その37~開祖への憧れと合気道漬けの日々~

関東遠征の際に1冊の本を買った。

「合気道開祖 植芝盛平伝」(植芝吉祥丸編著・植芝守央改訂版監修)

開祖・盛平翁の伝記である。

実はそれまで開祖についての知識はほとんどなかった。

しかし、この本を読んで驚いた。

これほどの達人・超人がつい最近まで実在したという事実。

4年目に入り、私の合気道熱が過熱した。

おりしもこの年はイベントが多く、いままでで一番合気道漬けの日々を送っていたのではないかと思う。

まずは

北海道

学生連盟として全日本演武大会に初参加。

当然、後に師匠となる尾﨑先生のナレーションを聞いているはずなのだが、全く覚えていない。

道主の演武が美しかった。

それから各演武会に講習会。大澤先生に初めて習ったのもこのときである。

演武会では戸田先生の受けを取るようになっていた。

通常は主将の仕事なのだが、なるべく先生の近くにいるようにして受けに抜擢されたのだ。

さらにドライブがてら苫小牧に出稽古に行ったりもした。

そして極めつけが白滝で行われた夏合宿である。

私の運命を決めた合宿といっていい。

2013年2月 5日 (火)

室欄・白滝記その36~二度目の関東遠征~

私は同期よりも後輩達とよくつるむことが多かった。

特に一つ下の代とはよくつるんだ。

主将はアサヒという男。新歓コンパの芸で居酒屋の中でボディーペイントをした野郎である。

このアサヒ達の代が関東遠征に行くことになり、面白そうなので私も一緒について行くことにした。

そして、ようやく私は西尾先生にお会いすることができた。

先生はご高齢で、度々入院しておられたということで痩せていた。

しかし、さすがに姿勢はスッとしておられ、鋭い眼光であった。

技の説明はニコニコしながら「ここで目潰し、ここで顎を外す」

と言ってることが結構厳しい。

知る人ぞ知る道主の追っかけY婦人と初めて会ったのもこのときだった。

本部では佐々木先生のクラスに出席する。

この先生のことははっきりとは覚えていないのだが、その風貌とよく冗談をおっしゃっていたことから推測するに佐々木将人先生だと思われる。

そして、ほぼ毎日の道主の朝稽古。

連日、二日酔いだったり、睡眠不足だったが、アサヒは毎回我々を本部へ引っ張っていくのだった。

偉い!!

え、それが普通ですか?

一方の副将はどうしても目黒寄生虫館に行きたいと言い張っていた…

こいつはスティーブン・セガールに憧れて入部した

といえば武闘派なのかと思うだろうが、見た目は小動物である。

連日の稽古を終え、室蘭へ帰ったのだが、この日は稽古日だったのでそのまま道場へ直行。

二度目の遠征は非常に疲れた。

2013年2月 2日 (土)

室欄・白滝記その35~合気道漫才②~

私自身も合気道漫才はとても気に入っていて、4年生(正確には4年目3年生)になってからも事あるごとに披露していた。

4年生からはポン(当時1年)という後輩と組むことにした。

この年も苫小牧で披露したが、それで漫才はもうやめるつもりであった。

しかし、1年後(このとき私は大学をやめ、フリーターしながらまだ室蘭にいた)の苫小牧演武会に出かける直前、おもむろに戸田先生が

「久保田、今年も漫才やるんだろ?

「えッ?!いや、今年は用意してません。」

「やれ‼

というわけで、苫小牧への道中、必死になってネタを考えた。

稽古は苫小牧体育館の廊下で行った。

他の利用者に不審な目で見られたことは言うまでもない。

さらに1年後、私は白滝に移っており、ちょうど仕事が一段楽した頃に室蘭へ遊びに行った。

すると後輩が「明日は苫小牧演武です」という。

「あ、そう。じゃあ俺も出るよ」

「漫才もやるんですよね?

?!

というわけで、その後輩の部屋で慌ててネタを考えた。

翌日、そのネタをポンに手渡すと、やつも慣れたもんですぐに覚えてしまい、助手席のポンと稽古しながら苫小牧へ向かった。

さらに1年後、ちょうど同じ時期に室蘭へいった私はもう事前にネタを用意していた。

が、今度はポンが出られないという。

仕方ないので相方を変えて披露した(結局やったのかよ!)。

しかし、とうとうポンも室蘭を去るときが来た。

他に相方になりそうな後輩もいないし、私は

市村

先生に「漫才はできません」と告げた。

先生は非常にがっかりされ、「お前は何しに来たんだ」とおっしゃった。

室欄・白滝記その34~合気道漫才①~

3年生にもなって1年生と余興をやることになった。

いや、わざわざやらなくても良かったのだが。

大学祭の演武で1年生は毎年「ハーフタイムショー」という余興をやらされる。

しかし、私が3年のときの1年生達はほとんどそれが不可能な状況にあった。

なぜか。当時の1年生は計3名。しかし、1人は大学祭直前の入部で右も左もわからない。

もう一人は1年のおよそ8割は風邪をひいているであろう超虚弱体質だった。

合気道をやってどんどん不健康になっていったのはこやつだけだった。

で、こいつは40度近い高熱を出してダウン。

一人で芸をやらせるのはかわいそうなので、私が助っ人を買って出ることになった。

合気道をからめた漫才をやることにした。

ボケがツッコミをかわし、逆に投げ飛ばす漫才を思いついた。

「合気道漫才」の誕生である。

これが戸田先生に大うけした。

すっかりこの漫才を気に入った先生は、その後の苫小牧演武会においてもやれとおっしゃった。

苫小牧の

市村

先生もすっかりこの漫才を気に入ってくれた。

しかし、まさかそれからずっと苫小牧演武で余興をやり続ける羽目になるとは思いもよらなかった。

室欄・白滝記その33~藤田師範~

少しくらい合気道の稽古についても書く。

今も行われている

北海道

連盟の講習会や札幌の講習会などには2年生のときから顔を出していた。

当時、講習会でお会いする先生はなんと言っても藤田昌武先生が多かった。

北海道

の合気道に最も深く関わっている本部師範で、どっしりとした体格で基本の捌きをとにかく丁寧にやられる。

いかに基本が大事かということを伝えようとされたのだろう。

一方で、技の方は豪快なところがあり、投げ技などは頭を押さえつけてそのまま真下に落とされたりしていた。

一時は受け身不可能なことで評判だったらしい。

藤田先生と初めてお話したのは四年目のときで、このときは晩年の大先生について質問した。

藤田先生は「みんな大先生のことを神様だって言うけど、大先生はただの人間だったよ」とよくおっしゃられた。

それから何度かお話しする機会があり、ついには名前も覚えてくださった。

先生は大変に筆まめな方で、白滝に移ってからはお手紙を下さるようになった。

それも狙ってやってらっしゃるのか、ちょうど収穫期頃にお手紙を下さるのである。

仕方が無いので(?)、返信には白滝のジャガイモを添えてお送りした。

大変喜んでくださった。

最後にお会いしたのは、

北海道

連盟40周年記念のとき。

ちょうど白滝道場から中湧別に移ったばかりの私を励ましてくださった。

その後、先生は体調を崩された。

できればまたお会いしたい。

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