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2016年1月

2016年1月19日 (火)

室欄・白滝記57~中湧別通い~

白滝道場を離れ、オホーツク中湧別道場の道場長代行になった。

尾﨑先生が不在の際に道場を維持するのが役目だった。

中湧別道場の指導員として新たな道を歩みだした私だが、この頃は人との接し方がわからず、軽い対人恐怖症に陥っていた。

そもそも、白滝道場での行き詰まりの理由の一つが指導者としての限界を感じていたことだった。だから、どう指導したらいいのかもわからない。

一からやり直すことにして、尾﨑先生のやり方をとにかく真似た。

技術も指導法もリセットした。

余計なことは語らず、ただただ先生のやるとおりにした。先生の威を借りた精一杯の虚勢であった。

そして、道場長代行の肩書はプレッシャーだった。

時代錯誤だと思われるだろうが、道場破りが来たらどうしようと本気で心配していた。

命がけで道場を守らなければいけないと思っていた。

さらに大変だったのが、その道のりである。

白滝から中湧別道場までは車でちょうど1時間。

稽古時間が1時間半だったので、往復の時間の方が長い。

運転嫌いだった私にはこれがきつかった。しかも夜の運転だ。

鹿をはねたこともあった。スピード違反で罰金を取られたこともあった。

仕事が忙しい時期は疲労からくる吐き気をもよおしながら運転し、稽古した。

夜の冬道も嫌だった。

いっそのこと、道場に泊まって、明るくなってから出発したほうがいいのではと思ったこともある。

しかし、冬の道場はハンパなく寒い。何しろ元ガレージである。

いただきものの一人用テントを道場内に張って、その中に敷布団。その上に毛布を敷く。

その上に横になると、毛布×2と掛布団をかける。頭が寒いので、頭にも小さな毛布を掛ける。

寝る前には近くの温泉に入り、体があったまっているうちに寝る。

それでも朝の5時くらいになると、寒さで目が覚めた。

そうして道場通いに苦労している私に、ある方がCDを貸してくれた。

「運転中の退屈しのぎに」と渡されたそのCDは立川談志の落語だった。

私と落語の出会いである。

室欄・白滝記56~中湧別道場へ~

尾﨑先生が中湧別での稽古を始めたのは、私が白滝道場を離れる2か月前のことだった。

先生は出身地である中湧別に一軒家を購入すると、その家に隣接するガレージを改装されて道場にした。

このガレージはもともとトラックのためのもので、普通のガレージよりは広い。

とはいえ、ガレージはガレージ。それも年代物である。

当初は、そこに畳を敷いただけのものだったので、すすは落ちてくるわ、ほこりはひどいわでわやであった。

膝行をすれば、膝の部分が黒く汚れ、アトピー持ちの私は体中かゆかった。

それでも稽古には毎回参加した。私の他に、遠軽から2名、(後の)妻も参加した。全員、当時は白滝道場生だった。

先生の来道は月に一度。東京でもお忙しいからである。

今では道場も素晴らしくきれいになっている。先生のご尽力の賜物である。

道場開きは平成19年の8月。ご来賓の皆様の前で演武も行った。

白滝の夏祭り演武と同日だったため、とても忙しい思いをした。

その頃には神社の補修も終わっていた。

寄付総額は町内、全国から400万円以上。特に腐食のひどかった屋根の全面張り替えと壁の補強が行われた。

そして、その直後に例の暴力事件が起き、「活動停止」というよくわからない処分が下される。

この処分に関しては尾﨑先生も納得がいかなかったらしい。

私の話を聞き終えた先生は、私の落ち度について指摘しつつも、

「白滝はもう久保田を要らないと言っているようなものだ。そんな会なら離れる手もあるんだよ」

と言われた。そして、

「もし君が白滝を離れるのであれば、指導者として正式に中湧別に来ていただきたい」

と言われた。

それまで、白滝道場を離れるなんてことは考えたこともなかった。

しかし、いろいろと考えた末にとうとう白滝道場を離れることにした。

当時としては心から納得のいく決断ではなかったが、今にして思えば、すべては成長していくための必然の出来事だったのだと思う。

そして、私のような未熟者に、合気の道を示してくださった先生にはただただ感謝の念しかない。

室欄・白滝記55~二つの出会い~

上白滝保存運動中に2つの出会いがあった。

まずは後に中湧別道場を設立し、私の2番目の師匠となる尾﨑先生。

先生は東京都合気道連盟の理事長であり、全日本演武の司会を毎年担当されているというとんでもない方だった。

そして、地元である中湧別に道場を構えるべく来道され、神社の視察にも見えられたのである。

その連絡を受け、私は仕事を抜け出し、作業着姿のまま神社に向かった。

そして手書きだった名刺を先生に差し出した。

それが先生にはかなり印象的だったらしい。

「君の麦わら帽子姿が忘れられない」

ことあるごとにそう言われたが、麦わら帽子はかぶってなかったです。

そして、もうひとつは後に妻となる女性との出会い。

彼女もまた中湧別の人だった。そして、釧路道場にかつて在籍した合氣道経験者であった。

新聞に上白滝神社の記事が載ったことで、白滝に道場があることを知り、白滝まで稽古にやってきたのだ。

初めて白滝道場に来た妻は「受け身をさせてほしい」と言い出して、一人でコロコロ転がっていた。

変な人だなぁ・・・というのが第一印象であった。

2016年1月18日 (月)

室欄・白滝記54~保存された神社と暴力事件~

上白滝神社保存運動については書けないことも多いし、書きたくないという気持ちも大きい。

色々な人の思惑が入り乱れて、かなりややこしい問題になっていたからだ。

しかし、結果的に全国の道場から多額の寄付が集まり、神社は補習された。

それは本当に素晴らしいことだし、皆さまには感謝の気持ちしかない。

ただ、私はこの問題を通して、合気会会長との価値観の違いが見えてしまっていた。
 

そして、若さゆえにそれを許すことができなかったのである。
 

その思いは態度にも表れ、ずいぶんと色々な人に失礼な態度をとってしまった。

お世話になった人をも傷つけた。当時の私の精神状態は最悪だった。

最終的に、私の態度に腹を立てた方が殴りかかってくるという暴力事件が発生した。

私は反省し、その方ともすぐに和解したのだが、会長はこの問題を重く受け止め、双方に3か月の「活動停止」という処分を下した。
 

会長としては「稽古に来るな」くらいのニュアンスだったかもしれないが、私にとって合気道は生活そのものである。
 

それを「停止」することは死刑宣告に等しかった。こんな些細な表現の違いにも価値観の差を感じた。
 

以後、3か月の間、白滝では仕事と買い物でしか外出しなかった。
 

そして、この事件が決定打となって、私は白滝の道場を離れることになる。

室欄・白滝記53~上白滝神社を守る会~

「上白滝神社が取り壊しになるらしい」

白滝合気会・会長の発言に私は耳を疑った。

なんでも神社は老朽化に伴い補修を必要としているが、神社を管理する上白滝自治会は高齢化が進み、今後の神社の維持を困難として取り壊すことに決めたのだそうだ。

しかも取り壊しの工事は数日後に迫っているという。

私は慌てて社長に相談した。

社長は当時の上白滝自治会長と親戚なのだったので、ひょっとしたら説得できるかもしれない。
 

社長は合気道に関してはほとんど何も知らないに等しい。

だが、合気道ゆかりの地の目玉でもある神社損失は白滝文化の損失につながると、すぐに自治会長の元に説得へ行ってくれた。

そして、説得には合気会会長も同行してくださった。
 

結果、神社は取り壊しをまぬがれることになった。

その条件は今後の維持に合気会が協力すること、また工事代の捻出であった。

しかし、その費用は数百万に上るとされ、合気会ではどうにもならないので、合気会と後援者達による「守る会」を立ち上げ、全国の合気道関係者にも寄附を呼びかけることで費用を集めることになった。

「守る会」会長にはかつて合気会に所属していたUさんが選出された。
 

Uさんはこの運動をきっかけに合気道に復帰し、白滝の合気道についても取り組んでくださるようになった。

私には事務局長なる肩書きが与えられた。

肩書は立派だが、要するに雑用係でとにかく忙しかった。

元々のんびり屋の私は忙しさに心のゆとりをなくしていった。

室欄・白滝記52~古事記について~

神社保存運動について触れる前に、少し古事記のことにも触れておく。

2年目の冬は全く仕事がなかったので、図書館に通っては古事記を読むことにした。

開祖の合気道論に神様の話は必要不可欠で、少しでも理解しようと思ってのことだった。

おかげで少し、開祖の言われんとしていることが理解できたような気がする。

合気道は禊である。

開祖の言葉に「合気の技は小戸の神技」というのがあるが、小戸とは

筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのおどのあわぎがはら)、

イザナギという神様が禊を行った土地のことである。

つまり、合気道は禊ということになる。

私が合気道を通じて少しでも真人間になろうとしているのはこの考え方から来ている。

そして、いつでも禊ができるということは失敗を恐れないということにつながる。

第一、 古事記の内容は神様の失敗談のオンパレードだ。

古事記と並んで開祖の言葉に出てくる「言霊」については、まだよくわからない。

しかし、開祖の精神的師匠にあたる出口王仁三郎の古事記論を少し読んで、開祖の守護神であるスサノオについても理解が深まった。

スサノオは日本の島を生んだイザナギとイザナミの子供である。

海を治める神と古事記には記されているが、海=地球という解釈もある。

スサノオは母のイザナミ亡きあとに生まれた神様で、母不在で生まれるのも奇妙な話だが、それでもイザナミのことを母だと思っている。

スサノオは亡き母に会いたいがために泣きどおし、海を干上がらせ、世の中に邪悪なものをはびこらせた。

さらに、天界でなぜか大暴れして、その罪で大きな岩を背負わされ人間界へ落されるのだ。

しかし、実際に悪さをし続けたのはスサノオの部下たちであり、スサノオは一人でその罪を背負ったのだという解釈がある。

まるでキリストみたいな話だ。

その後、人間界でスサノオはヤマタノオロチという化け物を退治し、英雄となる。 汚名返上、まさに禊の物語。

開祖の出身の和歌山はこのスサノオ信仰の土地であり、開祖は自分の守護神としてスサノオの巻物を白滝に持ってきていた。

その巻物が納められているのが上白滝神社である。

室欄・白滝記51~白滝での活動あれこれ~

前回までのあらすじ
 
室蘭道場を卒業し、開祖ゆかりの地にあこがれただけの理由で白滝へやってきた私。
 
一年目は遠軽の吉野先生の指導のもとで稽古をしていたが、吉野先生は東京へ行ってしまう。

仙台から帰ってくると、やっぱり暇なので白滝合気会の文集を作ろうと思い立った。

皆さんに合気道について作文を書いてもらった。

すっごく嫌がられた。

他にも私は白滝でいろいろなことを試みようとしていた。

例えば、せっかくのゆかりの地なのに、誰も開祖のことを知らない。

寂しいので、開祖の話を特に子供たちにしてあげた。稽古時間が短くなってしまった。

この頃には指導はほとんど私が行っていた。

吉野先生が仕事で東京へ行ってしまわれたのだ。

毎日の稽古を担当するのは大変だった。このとき、初めて合気道部の主将の大変さを実感した。

子供たちの審査を考えるのも、夏祭りの演武の指導もやった。

さらに白滝に合気道を根付かせようと、一緒に働いていたおばちゃんを誘って、体操代わりに合気道を指導したこともあった。

隣地区の丸瀬布からも通ってくる人が出てきたので、丸瀬布の体育館を借りて稽古したこともあった。遠軽から通う人も出てきた。

イギリスから来たEATの先生に指導したこともあった。外国人に指導するのはこれが初めてだった。

この頃は思いつくことをいろいろやっていたので、結構忙しかった。

そして多忙を極めたのが上白滝神社保存運動であった。

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