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2016年4月

2016年4月17日 (日)

息子が生まれてからのこと⑬~家族の理念~

息子が生まれてから1年と数か月、私一人で考えすぎたこともあったが、基本的には「私一人が」ではなく、「家族で何ができるか」ということが決め手になっている。

そして、その間に我が家では企業理念ならぬ、家族理念というものを作った。

今後は以下の理念に沿って行動していくことになります。

理念1:ワクワクを選択する
たとえ息子のためになることでも、不得意なこと、大変すぎることは持続しない。
ときめくこと、やっていて楽しいことかどうかを直感で見極め、選択する。
ワクワクはさらなるワクワクを呼ぶ。楽しんで生きる。

理念2:アートを仕事にする
決まった職にとらわれず、特技を生かして仕事にしていく。
特技はアート(芸術)の域にまで高める。
または高めるつもりで向上心を持ち続ける。

理念3:ともに学び、成長する
常に学ぶ。何からでも学ぶ。
目の前で起こるあらゆる出来事に対して、学習する姿勢を持ち、経験を無駄にしないようにする。

理念4:子供を基準に考え、行動する

子供は未来。
子供のためになるかどうかを価値観の基準にする。
自分の行いが、子供たちの未来にどう影響するのかを考えて行動する。

理念5:いつでも笑顔を
笑いは大切。
人は笑うから幸せになる。
人を楽しませるよう心がけ、自身も笑顔でいるようにする。

おしまい

2016年4月16日 (土)

息子が生まれてからのこと⑫~遠軽へ~

妻は遠軽で鍼灸院をやっている。

実家から車で20分のところだ。

妻は私よりも10歳近く年上なので、親ももう若くない。

いつでも両親を治療できる距離にいたい。唯一の孫である息子と両親を引き離したくない、というのが、妻の出した結論だった。

妻がそう言うなら、私には反対はできない。

私は家族のつながりを大切に思っているからだ。

息子に両祖父の名を一字づつ与えたのもそのためだ。

そして、妻も遠軽で自分のやりたいことを見つけていた。

それは、私にとってもワクワクする話だった。

私はあっさりと移住先を遠軽に変更することにした。

それまで、妻が自分のやりたいことや具体的な意見を述べたことはなかった。

それもあって、私は自分の生き方を探すのに焦っていた。

自分の望む生き方ができるのなら、場所はどこでもいい。

ただ、遠軽は遠軽合気会と中湧別道場のテリトリーなので、自分の道場の候補地に考えてはいなかった。

でも、私なりのやり方が何かあるんじゃないかと、今はそう思っている。

遠軽なら遠軽で、我々にふさわしいライフスタイルがあるはずだ。

これからはそれを模索していく。

2016年4月15日 (金)

息子が生まれてからのこと⑪~土地探しと妻の思い~

さて、私は私なりに悩んで、結論を出したのだが、常に息子と一緒にいた妻はそれどころではなかった。

妻は育児に疲れていた。

なので、突然の私の「東川で合氣道道場」計画にも全然いい顔をしなかった。

ここから妻の説得と、実際に自分のやりたいことが実現できるのかという新たな問題に悩まされることになる。

それでも妻は私の思いを察してくれて、移住してもいいと言ってくれた。

そこで、春~秋期の職場(農家)に、退職したい旨を伝えると、もう1期だけ手伝ってほしいとのこと。

すでに提出してしまった営農計画の書類の関係上、従業員が減るのはまずいらしい。

お礼奉公だと思って、11月まで働いた。

その間に、ほかの土地への移住も視野に入れるようになる。

1シーズン余計に白滝に足止めを食らったのは、ほかの選択肢も考えろという天の声だと判断したためだった。

東川の代わりに、白羽の矢が立ったのは富良野だった。

合氣道の道場が全然なく、新しく開拓できることと、祖母がいることが理由。

北海道の中心というのも氣にいった。

武道において、中心はとても大事であるからだ。

ひらめきと縁の有無が判断基準だった。

そして、冬の間も白滝で仕事をしながら、富良野の土地を探したのだが、妻はまだ浮かない顔をしていた。

いい場所も全然見つからなかった。

そして、ついに妻は自分の思いを口にしたのだった。

「私は両親の近くで暮らしたい」

2016年4月12日 (火)

息子が生まれてからのこと⑩~解放する合氣道~

ちょうどその頃の私の合氣道のテーマは「自由と解放」だった。

ヒントを与えてくれたのは、ちょうどその頃、湧別町に合宿に来た某神奈川道場だった。

合氣道には試合がないため、受け身も技の掛け手に合わせて行う。

お互いに合わせ合う。

その際に、相手の力を素直に受け入れると、思いもかけず飛ばされることがある。

この「飛ばされている」瞬間は何とも言えず氣持ちがいい。

自分で飛んでいるわけではないので、自分の体の重さを感じない。

氣持ちも体もとても軽い。

心と体が解放された状態になっているのだと思う。

同じように氣持ちよく天の受け身をとれるかどうか(氣持ちよく生かされるかどうか)が、人生かもしれない。

その頃、私は中湧別の道場を任されていて、指導者として誰よりも受け身を取っていた。

受け身を取ると、相手が初心者だろうが、子供だろうが、飛ばされることがある。

それはその人の長所に的確に反応した結果。

私の指導法は受け身を通じて、相手の良さを引き出すことにあった。

長所を認められると、人は一層輝く。

その長所が仕事になれば、おそらく最高のパフォーマンスを行えるだろう。

それが、きっと縄文人の生き方だったはずだ。

では、私の長所は何か?

それは他ならぬ、「合氣道の指導」ではないのか?

思えば、私は指導者になりたかったわけでもないのに、ずっと指導をさせられていた。

それが天に対する受け身だったのかもしれない。

自分も道場ができないだろうか?

ふと、そんなことを思いついた。

合氣道を通じて、学びの場を創りたい。

そうすれば、人材育成につながるかもしれない。

そうして育った人たちが、未来を創っていくかもしれない。

私が社会のために、未来のためにできることはそれしかないかもしれない。

やっと答えが出た。

長い苦しみが終わり、目の前が明るく開けた。

道場をやる土地は、大麻の町・東川しか考えられなかった。

2016年4月11日 (月)

息子が生まれてからのこと⑨~縛られている生き方~

我々人間は、地球という場に縛られ、重力に縛られている。ま、これはしかたない。

小さいうちは親に縛られ、家族に縛られる。

これも仕方がないが、その影響があまりに強すぎると、大人になっても縛られたままだったりする。

だいたいの人は常識に縛られて生きており、我が子にも常識の範囲内で生きるよう躾という縛りを行う。

ある年齢に達すると、子供は学校にも縛られる。

校則、宿題、教科書、先生、時間…いろんなものに縛られる。

先生自身も縛られているため、その範囲内でしか子供の教育ができない。

社会に出れば職場に縛られる。

仕事をしなくてはいけないという思いに縛られる。

なぜなら、誰もがお金に縛られているから。

・・・人間の生活はがんじがらめだ。自由がない。

仕方のない部分もあるが、以上の縛りの中で、多くの人はその人なりの長所や特技すら封殺されていたりする。

だから、多くの人は好きでもない(無理やり好きになったりもするが)仕事をしながら生きている。

縛られている状態が当たり前になりすぎて、縛られていることにすら氣づかない人も多い。

そういうものだとあきらめている。

柵の中の大麻は、なんてことはない、人間を映す鏡だったのだ。

私が大麻と関わって一番勉強になったのはこのことだった。

この頃から、さらに自分の仕事について考え、自営という可能性も考えた。

雇用されるのは束縛でもあるからだ。

父親の私が束縛されない生き方を目指すことは、息子が自由に成長することにもつながるかもしれない。

では、私にとって特技を生かせる自由な道とは何なのだろう?私には何ができるのだろう?

その答えはやはり合氣道しかなかった。

2016年4月10日 (日)

息子が生まれてからのこと⑧~牢屋の中の麻~

東川の農家さんと同時に免許を取った方がいる。

その方は農業試験場のOBで、品種改良のプロであり、北海道に適した大麻を研究している。

「大麻を牢屋から出してあげたい」との思いから、大麻を一般的な作物として普及させるべく尽力されている。

実は道内で大麻を栽培するには柵が必要となる。

この柵の設置も栽培者の負担となる。

東川の大麻も高い柵に囲まれた状態で育てられていた。

その様子はたしかに牢屋にも見える。

野生であれば抜き取られ、作物だったとしても、どこにでも植えていいわけじゃない。

さらに、葉っぱと根は取り締まりの対象に当たるため、畑の中で取り除く必要がある。

茎と種も乾燥させなければダメ。

特に種は、一般に流通させるためには熱処理が求められる。発芽させないためである。

大麻自身も栽培者も制約だらけで自由がない。

なぜなら大麻は痲薬ということになっているからだ。

その根拠はテトラヒドロカンナビオール(THC)という幻覚成分を含んでいるらしいからである。

だから、近年出回っている「産業用」大麻はTHCがほとんど含まれないよう品種改良されている。

THCの幻覚作用の有無は私にはわからない。

ただ、私はTHCこそが大麻の最大の個性なのではないかと思っている。

しかし、それですら人間の都合で封じられてしまった。

可愛そうなくらい大麻には自由と、個性を発揮できる場がないのである。

でも、それは我々も大して変わらないと、そう氣がついた。

2016年4月 9日 (土)

息子が生まれてからのこと⑦~ヘンプスクール~

東川では、大麻について知識を深めるべく、「ヘンプスクール」という勉強会が毎月行われた。

ものすごい勢いで成長していく大麻畑は圧巻でもあり、見た目にもとてもきれいだった。

大麻の葉っぱはとても美しい形をしている。

そして、毎月そこに集まってくる人達はとても面白い方ばかりだった。

接していて、刺激を受ける方たちばかりだった。 色んな人達と知り合えたことが、私にとってヘンプスクールの最大の収穫だったかもしれない。

東川という町も氣に入った。住みたいとも思った。

しかし、一方で、自分が何をすべきかという答えは全然見つかっておらず、むしろ大麻の現状を知るほどに何ができるのか、わからなくなっていった。

そんな時に読んだ、ある大麻推進派の方の記事が私の目を引いた。

それは縄文人についての記事だった。

曰く、縄文時代は一万年以上も平和であった。

それは皆、自分の好きなことや得意なことしかしていなかったからである。とのこと。

ハッとした。

(どうやって調べたのかは知らないが)縄文人は自由で、束縛なしに生きていたのだ!

対して、現代人はどうか?

考えれば考えるほどに、現代人は不自由で、その姿は制約だらけの大麻ととても似ていたのである。

2016年4月 8日 (金)

息子が生まれてからのこと⑥~大麻の栽培者~

東川で大麻栽培を始めた農家さんは、白滝のどの農家さんともタイプが違っていた。

一番の違いは全然いばらないことだった。

...

そして、「子供たちの未来のために」をコンセプトに有機農業、低農薬農業をされている。

http://matsukafarm.com/

大麻という作物に可能性を感じての挑戦だった。

しかし、実は現時点で大麻はそれほどメリットのある作物ではない。
そこには大麻取締法と免許制度が大きな影を落としている。

大麻免許についてザックリ説明する。

大麻には研究者免許と栽培者免許がある。栽培にはいずれかが必要になる。

研究者免許は実際に栽培しない人でも持っていたりする。

麻薬取締官などがそうだ。無免許だと、大麻を所持した瞬間に犯罪者となる。

研究者免許でも栽培はできるが、あくまで名目が研究のためなので、利益を追求できない。

大麻栽培をビジネス化したければ、栽培者免許の方が必要になる。

しかし、道内の栽培者免許では種の更新まで許されておらず、自家採取できない(自家採取は県によっては栽培者でも可能)。

とても高額な種を国内で何とかして入手しなくてはいけない。種の輸入も違法だからだ。

自家採取が可能な研究者はビジネスをしてはいけず、ビジネスをしたい栽培者はその種を入手できない。

道内では最初から大麻ビジネスが成り立たない構図になっている。

おまけに更新は一年ごと。そこまでして免許を保持するメリットはどこにあるのか?

しかし、それでも地道に栽培を続けていた先駆者が北海道にもいた。

その方は北見で「外のものを畑に持ち込まない」という徹底した有機農法でハーブを育てている。

http://www.koyu-seikatu.co.jp/

大麻に関わる人達の中には未来を真剣に考える人が多い。

まず、私が考えた生き方は、そうしたより志の高い方のもとで働くという選択肢だった。

2016年4月 7日 (木)

息子が生まれてからのこと⑤~大麻について②~

麻は日本でのみ重要な草だったわけではない。

いつの時代でも世界中で使用されており、どこにでも生える草である。

そして、近年ではさらに加工の技術が進み、断熱材、プラスチック、コンクリートやバイオエ燃料など、ありとあらゆるものに姿を変える。

医療薬としても万病に効く薬となるらしい。

元々、大麻には人を癒す力があるらしく、大麻の服は着ているだけで人を癒すとも言う。

しかも、栽培には農薬を必要とせず、成長が早いため収量が多い。

以上が大麻のザックリとした説明なのだが、その中で私にとって魅力的だったのは土に還る資源であるということだった。

環境問題=ゴミ問題。それが大麻製品なら土に還る。

現代で最も多岐にわたって我々の生活を支えているのは石油だろうが、石油はゴミになる。

プラスチックもビニールも土に還らない。

しかし、大麻はプラスチックにも燃料にもなる。石油の代わりにもなりえる。

次の時代を創るのは大麻かもしれない。

実際、石油利権によって、大麻が非合法化されたという陰謀論もある。

もちろん、時代はそんなに簡単に急激には変わらないし、自分に何ができるのかも皆目見当がつかない。

でも、その頃の私は大麻製の家に住み、大麻燃料で動く機械で大麻畑の作業を行っている姿なんかを空想したりした。

とにかく少しでも大麻に触れる機会を作り、勉強しよう。

そう決めた私は東川町に通うことにした。

ちょうどその年は東川町で大麻の試験栽培が始まった年だった。

2016年4月 6日 (水)

息子が生まれてからのこと④~大麻について~

大麻に関する世の中の認識が、どうも真実とはかけ離れていることはすでに知識としてあった。

だからヘンプ製の服というアイテムを持っていたのだ。

大麻についてザックリ説明する。 元々は大麻という名称ではなく「麻」。「アサ」か「オ」と読む。

日本で「麻」と言えば、それは苧麻でも亜麻でもなく大麻のことだった。

それだけ日本人にとってなじみの深い草で、衣服などとしてはもちろん、紙や縄、花火の火薬などいろんなものに活用された。

種は食用にもなり、いまだに七味唐辛子の中には入っている(ただし、今はほとんどカナダ産)。

神社のしめ縄や横綱のまわし(このまわしのことを本来「横綱」というらしい)などの神事にも欠かせなかった。

私にはわからないが、結界を張る霊力があるらしい。

現在は麻薬とされているが、他の麻薬はおろか、酒やたばこと比較しても毒性、依存性は低いとされる。

そもそも現代では、字が似ているという理由だけで「麻」の字を「麻薬」に当てているが、本来はしびれるという意味の「痲」で「痲薬」である。

しかし、敗戦後、日本はアメリカから大麻を抑制され、現在では大麻栽培には免許が必要となる。

それもかなりめんどくさい免許のため、国内の麻農家は激減。

野生大麻は抜き取られ、日本から大麻は消えていった。

2016年4月 5日 (火)

息子が生まれてからのこと③~SOUL'd OUT~

「夢」に関するメッセージは音楽を通じて送られてきた。
 
当時、私は「SOUL’d OUT」というグループばかり聞いており、また、彼らの楽曲には聞いていて恥ずかしくなるくらいストレートに「夢」について歌ったものが多かった。
 
そのSOが解散することになり、私は札幌で行われた解散ツアー公演を見に行った。
 
♪そうさ 俺たちは知っている 本当は誰も自分のために歩き出すことなど できないことを
 
アンコールで歌われた「SUPERFEEL」という曲のこの部分は、まさに息子のために変わろうとしている自分に突き刺さるメッセージだった。
 
ライブだったので、CDで聞くよりもはるかに力強いメッセージとなって心に響いた。
 
そのライブに私はヘンプの服を着て臨んでいた。
 
そして、帰りの汽車の中でふと思いついた。
 
「ヘンプに関わろう」と。
 
それではヘンプとはいったい何か?
 
それはズバリ「大麻」。「マリファナ」として、麻薬に認定されているあの大麻である。
 

2016年4月 4日 (月)

息子が生まれてからのこと②~息子からのメッセージ~

息子が生まれてからは、白滝の自然がより一層美しく見えた。

まるで息子のようにすべてが輝いていた。

そして、環境問題について以前より意識するようになった。
この美しい自然を息子たちの代に残していかなくてはいけないのではないか?
そんな当たり前のことが頭をよぎる。
だが、現実にはそんなことは当たり前ではなく、環境は破壊される一方だ。

大人は間違っている。これが次に氣づいたこと。
もっとも、私は以前から子供の方が偉いと思っていたので、確信に変わったこと。
どの大人も最初は息子のように純粋無垢だったのだ。
それがなぜか成長すると、皆世の中をめちゃくちゃにしていく。
そして、あたかも自分たちの方が偉いかのように子供の前で振る舞い、教育をする。
結果、子供は同じように育っていく。

そして、何より大きなメッセージは「夢を持て」ということだった。
「父」として夢を持て!
それは今までに夢を持たず、あるいはあっさりと夢に敗れてきた私にとっては、一番重たいテーマだった。

環境に貢献し、かつ息子が純粋にまっすぐ育ってくれるような「夢」。
そんなことが何か私にできるのか?!
ここから数か月の間、私はこの問いに苦しむことになる。

2016年4月 3日 (日)

息子が生まれてからのこと①~新しい人生の始まり~

新しい命は世の中を正すために生まれてくる。

大人たちが繰り返してきた過ちを正すように、メッセージを持って生まれてくる。

 

息子が生まれる前から、私はそういう考えを持っていた。
 
しかし、実際に自分に息子が生まれた時に、私に何が起こったのか。

それをこれからつづっていこうと思う。

 

2014年、64日。私の立会いのもとに息子はこの世に生を受けた。
 
両祖父から一字づついただいて「雅也」と命名。

生まれたばかりの息子はとても小さくて、純粋だった。

それから毎日生まれたばかりの小さな命と向き合っているうちに、目に移る景色が変わっていった。
目の前で起こる全ての出来事は、息子からのメッセージに思え、今までの自分の価値観が変わっていった。
今までは「私」という人間として生きてきたが、これからは「雅也の父」なのだ。

そのためには今までのこだわりを捨てて、全く新しい人生を歩むかもしれないという実感があった。
その選択肢には「白滝を離れる」ということも含まれていた。

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